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電子マネーが人々の意識を変えた!

二〇〇一年十一月十八日。JR東日本は、首都圏の駅でIC乗車券スイカの発売を開始し、それと同時に、東京、千葉、埼玉、神奈川、茨城など八都県下の二十六路線四百二十四駅で、スイカの出改札を始めた。それを記念して、新宿駅南口では午前九時からスイカ導入式典が盛大に催された。JR東日本の大塚陸毅社長(当時)をはじめ、同社幹部が居並ぶなか、ICカード開発の陣頭指揮に立ってきたIT・Suica事業本部副本部長で当時は設備部旅客設備課長の椎橋章夫の姿もみえた。また、ICカードを供給するソニーからは、出井伸之会長(当時)も出席し、同社が開発したフェリカに賭けるなみなみならぬ意欲をみせた。

しかし、スイカ・プロジェクトの指揮を執り、リーダーとしてここまで引っ張ってきた椎橋の心は落ち着かなかった。すでにスイカのシステムは稼働し、山手線のどこかの改札では、いまもスイカを受け付けて情報を処理しているはずだった。しかし、「万一、どこかで、何かあったら、すぐに飛び出して行かねばならぬ」。そう考えると式典の間中、身体が固くなって緊張が解けなかった。九三年当時、改札のリニューアルに伴い、二〇〇一年のICカードの導入はほぼ決まったものの、その仕様からサービスまですべてが白紙の状態だった。

そのプランニングを当時上野駅でエレベータなど駅舎の設備を担当していた椎橋が任され、その頃から本格的な準備にかかった。しかし、畑違いの椎橋にとっては、苦労の連続だった。まず、最初にICカードの勉強から始めたが、それからは三回に亘る実証実験の実施、さらには「乗車券以外の活用の方法を見いだせ」と無理難題をぶつける経営陣の説得など数多くの障害が立ちはだかったからだ。そのハードルをひとつずつ乗り越えてのスイカのスタートであった。もちろん、その胸には喜びが溢れていたが、それを上回る不安もあった。椎橋は、前夜から田町にある関連会社のJR東日本メカトロニクスの本部にいて、遅くまで切り替え作業を行なっていた。しかし、翌日は本番である。

そのスタートが気になってしかたがないため、ホテルで仮眠をとると、すぐに朝一番の山手線に乗って自らスイカの反応を試してみたというのだ。椎橋は、夜明け前の田町駅で、スイカを使って電車に粟ると、順調に反応したスイカに満足して、本社のある新宿まで行こうとした。ところが、電車に乗っている間も気になってしかたない。彼は次の駅で途中下車すると、改札に駆け上がり、そこでもスイカを試してみた。「おっ、うまくいった」と、異常がないことを確認すると、またホームに戻って、電車に乗るということを繰り返した。まるで、わが子の出産に立ち会う若い父親の心境であった。そして、とうとう新宿駅に到着するまで各駅で乗り降りを繰り返したというのだ。

難産で生まれたスイカであったが、滑り出しは順調であった。発売わずか十九日で百万枚を突破した。それ以降、順調に増えて○八年七月には二千五百万枚を突破するところまできている。さらに、スイカのショッピンクも好評で、椎橋の描いた「駅ナカ」「街ナカ」という戦略に沿って市中の加盟店も着々と増えている。その結果、スイカは第三の柱として、JR東日本の事業のひとつに格上げされた。また、鉄道事業者のJR東日本は、スイカの導入とその成功によって生活サービス業へと大きく舵を切った。これで少子化時代を乗り切る体制を整えることもできた。ちなみに電子マネーを使ったプロジェクトの中で、大企業が業態転換に成功したのは、JR東日本が世界で初めてである。